木太刀は朽ちて、石は残る──源義朝の墓と、弔いのこと
2026年8月18日(火)
こんにちは。
川崎市多摩区の石屋、吉澤石材店の吉澤です。
2024年秋のことです。
愛知県美浜町の野間大坊を訪ねました。
正式には大御堂寺という、真言宗のお寺です。
平治の乱に敗れた源義朝が、
頼った家臣に裏切られ、湯殿で討たれた。
そう伝えられている土地にあります。
その墓の前に立ったとき、
まず目に入るのは石ではなく、木太刀です。
墓のまわりに、うずたかく積まれている。
数えきれない量です。

討たれるとき、
義朝が「せめて木太刀の一本でもあれば」
と言い残したという話があり、
それにちなんで奉納されるようになったと
伝えられています。
古いものは黒く朽ちて、
新しいものは白木のまま。
絶えずお参りする人がいることがわかります。
一枚一枚には、
「心願成就」や「家内安全」
といった願い事が書かれています。
義朝を弔うために奉納される木太刀に、
後世の人が自分の願いを託す。
昔の人にとり、
死者は、亡くなったらそれで終わり
という存在ではなかったのでしょう。
特に、恨みを残して死んだ人を
そのままにしておけば、
何が起こるか分からない。
きちんと弔い、鎮まってもらわねば。
そんな気持ちは、
今よりずっと強かったのだと思います。
そう考えると、
人を殺す側にもなった武士たちが、
寺や塔を建て、念仏を唱え、
ときに敵方の死者まで弔ったことも
少し分かる気がします。
もちろん、
理由はそれだけではなかったでしょう。
殺生の罪で自分がどうなるのかという
恐れもあった。済まないという気持ちや、
死んだ人への
哀れみもあったかもしれません。
人間ですから、理由はきっと一つではない。
ただ、祟られては困るという恐れは、
かなり大きかったのではないか。
私はそう思っています。
また、
そうした恐れや後ろめたさを収めるために、
仏教にも頼ったのかもしれません。
武士は仏教を信じていた。
そして、信じていたからこそ利用できた。
私は、こんなふうに考えています。
そう考えながら、
もう一度、義朝の墓を見てみます。
石屋として気になるのは、
そこに建っている石塔です。
義朝の墓とされている石塔は、
宝篋印塔です。

この形の石塔が日本で造られるようになるのは、
義朝が討たれた時代より後のことです。
つまり、今そこにある石塔が、
義朝の死の直後から建っていたわけでは
ないでしょう。
いつ、誰が、どんな思いで建立したのか、
私には分かりません。
ただ、そこを義朝の墓として粗末にせず、
長く守ってきた人たちがいた。
そして、その石塔が今もそこにあり、
だからこそ、800年以上たった今でも、
ここが源義朝の墓だと分かる。
宝篋印塔は、
義朝を弔う場所のシンボルとして残り、
今も人をそこへ導いてくるのです。
石が残るというのは、
そういうことなのだと思います。
では。
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