「自然葬」と呼ばれる葬り方──では、今までのお墓は不自然葬なのか

2026年8月4日(火)


こんにちは。
川崎市多摩区の石屋、吉澤石材店の吉澤です。

「自然葬」という言葉が、
どうにも引っかかっています。

葬り方そのものではなく、
「自然葬」という言葉が、
その中身をどう見せているのか。

今日はそんなことを書いてみます。

神戸市が今年から募集を始めた
樹林葬墓地の資料を読みました。

山の樹林の中に、一定の間隔をあけて
順番に穴を掘る。

そこへ、粉状にしたお骨を土と混ぜて
直接埋める。

骨壺も納骨室も使いません。

個人ごとの墓標は建てず、
樹林全体を墓標とすると説明されています。

一度埋めたら、返してもらうことも、
改葬することもできません。

そのうえで、資料には
「自然回帰」
「自然山林そのものの土に還る」
といった言葉が並びます。

読んでいて、思いました。

石は、自然のものではないのでしょうか。

山から切り出して、磨いて、字を彫る。
むろん、人の手は加わっています。

けれども素材そのものは、
気の遠くなるような時間をかけて
地中でできたものです。

加工したから自然でなくなるというなら、
この世に自然なものなど、ほとんど残りません。

では、神戸市のこの樹林葬は、人の手を加えず、
自然の働きだけに任せているのでしょうか。

資料を読んでいくと、
どうもそうではないようです。

お骨は、粉にしてから埋めます。

粉骨するのは、市ではありません。
使用許可を受けた遺族が、業者に依頼します。

費用は数万円ほどかかるそうです。

また、市の資料には、焼骨のままでは
土壌の状況によって分解に百年以上かかる
こともあるため、粉骨にして自然分解を
促進すると書かれています。

粉骨なら二十年から三十年ほどで
土に還ると予想される、とも。

扱うものは違っても、石を切るのも加工。
骨を砕くのも、また加工と言えるでしょう。

それなら、今までのお墓は
「不自然葬」や「人工葬」なのでしょうか。

言葉遊びのように聞こえるかもしれません。

けれども「自然葬」と聞けば、自然に沿った、
自然にやさしい葬り方を思い浮かべる人は
多いことでしょう。

そうなると、今までのお墓は反対に、
自然ではないもののように見えてしまう。
私は、そこに違和感があります。

そもそも「自然葬」には、
法律上の定義も、統一した基準もありません。

樹木葬も、海洋散骨も、
神戸市のこの樹林葬が採用している
粉骨して土に混ぜる方法も、
遺骨の扱いはそれぞれ違います。

それでも、どれも「自然葬」という
同じ括りで語られてしまいます。

それと、参る場所のことも気になります。

お骨をどこへ納めるかと、
どこへ手を合わせに行くかは、別のことです。

地域によっては、亡骸を埋めた場所とは
離れたところに、
参るためのお墓を建ててきました。

こうした墓制を両墓制といいます。
埋葬する場所と、手を合わせる場所を
分けていたのです。

私たちの地域では、一般的なお墓の場合、
まずはお骨を、骨壺のまま納骨室に納めます。

すぐに土へ還す形ではありませんが、
将来お墓を建て替える際などに、
お骨を土中へ納めることもできます。

そして、参る先は残ります。

何十年経っても、
そこへ行けば手を合わせられる。

一方、神戸市のこの樹林葬では、
お骨を粉にして土と混ぜ、
自然分解を促進します。

一度埋めれば、二度と取り出せません。

樹林全体が参る先にはなりますが、
誰をどこに納めたのか分かる形では
残らないでしょう。

継ぐ人がいない。遠くてお墓を守れない。
そういう事情は現実にあります。

内容を承知したうえで選ぶのなら、
これも確かに一つの道です。

ただ、子や孫がいる場合はどうでしょうか。

神戸市のこの樹林葬には、
個人ごとの墓標がありません。

現地に、その人を示す目印はないのです。

何年か経って手を合わせに行っても、
指させるのは山の一帯だけです。

父さんはあの辺なんだよ。
おじいさんはこの奥のどこか。
ひいじいさんとなれば、もう誰も知らない。

しかも神戸市は、50年経ったら墓地としての
管理を終え、そこは公園内の自然山林になると
説明しています。

森は生きていますから、木は倒れ、生え替わり、
下草も変わる。

目印にしていた景色そのものが
入れ替わっていきます。

そのとき、お墓参りで訪ねた人の前に、
何が残っているのでしょうか。

石のお墓は、そこが違います。
字を彫った石は、そこに残ります。

父や祖父であれば、
顔や声を覚えている人がいます。

けれども、ひいおじいさんや、
そのさらに前の先祖となれば、
直接会った記憶を持つ人はいなくなります。

私たちは、石に刻まれた名前を通して、
その人たちを知ります。

人の記憶が届かなくなった先まで、
石は覚えているのです。

忘れていても、行けば分かる。これです。

私が引っかかるのは、
「自然に還る」という言葉が、
そこまで見えなくしてしまうことです。

自然に抱かれて眠る。
そう聞けば、誰の頭にも絵が浮かびます。

森があって、土があって、
そこへ静かに還っていく。
悪い気持ちのするはずがありません。

おまけに使用料は一体15万円。
お墓を建てるより、はるかに安く済みます。

美しい絵が浮かび、しかも費用は安い。

その二つが揃った時点で、
それ以上考える気は、なかなか起きません。

そこなのです。

言葉が、中身を説明していない。
考えなくてよいという、心地よい安心のほうが、
先に届いてしまうように感じます。

もちろん、何を選ぶかは、
それぞれの家が決めればいいことです。

ただ、決める前に立ち止まる時間まで、
美しい言葉に持っていかれてほしくは
ありません。

私が慣れ親しんでいる石は、
人が生まれるずっと前から
そこにあったものです。

その石でつくったお墓が、
自然ではないもののように扱われる。

私は、そこがどうにも釈然としません。

では。


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