血のつながりだけが、弔う理由ではない
2026年8月14日(金)
こんにちは。
川崎市多摩区の石屋、吉澤石材店の吉澤です。
今朝、新聞を開くと、
戦後81年に寄せた投稿欄に、
こんな話が載っていました。
ある方が、亡くなる前のお父さまと二人で
広島へ行ったそうです。
お父さまは戦時中、海軍に入り、
広島県で数年間を過ごしました。
原爆が落とされた昭和20年8月6日は、
たまたま東京へ向かう列車の中にいて、
広島を離れていた。
世話になった人たちの多くは、
あの日、広島で亡くなりました。
それから長い年月が過ぎます。
お父さまは戦後、
広島を訪れることはありませんでした。
しかし、60回目の原爆忌を迎えるころ、
急に広島へ行くことを決めた。
自分が亡くなる前に、
広島で世話になった人たちを慰霊しておきたい。
そう考えたのではないかと、
投稿した息子さんは書いていました。
二人旅は照れくさく、
会話も弾まなかったそうです。
それでも慰霊を済ませたあとのお父さまは、
満足そうな顔をしていたといいます。

2026年8月14日付 読売新聞「気流」投稿欄「60年ぶりの広島」より
私は、この話が妙に心に残りました。
お父さまが手を合わせたかった相手は、
家族でも親戚でもありません。
かつて世話になった、広島の人たちです。
それでも、自分の命が尽きる前に
一度は手を合わせておきたかった。
死者を弔うのに、
血のつながりが必要なわけではありません。
墓地や寺の片隅には、
無縁塔や供養塔が残っています。
名も分からない人、行き倒れた人、
災害や飢饉で亡くなった人。
誰の身内とも分からない死者のために、
誰かが石碑を建て、手を合わせてきました。
古くは合戦のあと、敵味方を問わず
死者を弔った塚や石碑も残されています。
敵として戦った相手であっても、
死んでしまえば手を合わせる。
そこには慈しみだけではなく、
死者に対する畏れもあったのでしょう。
昔から、人は死者に対して
畏敬の念をもって接してきたのだと思います。
では、なぜ人はそこまで死者を弔うのか。
少し身も蓋もない言い方になりますが、
弔いは必ずしも、死者のためだけのものでも
ないのかもしれません。
手を合わせるのは、
もちろん亡くなった人のためです。
けれど、弔わずにいることで、
生きている側の心にも何かしら残るものがある。
気がかりだったり、悔いだったり、
言葉にはしにくい何かだったり。
だから人は、死者に手を合わせるのでしょう。
供養は人のためならず、
というところがあるのだと思います。
このお父さまは、
60回目の原爆忌に広島へ行き、
世話になった人たちに手を合わせた。
そして慰霊を終えた後には、
満足そうな顔をしていた。
死者に何かを届けることができたからなのか。
それとも、自分の中に長く残っていたものに、
ようやく心の収まりがついたからなのか。
そのどちらもあったのかもしれません。
弔いは、亡くなった人のためにするものです。
けれど、その行いが
生きている側の心にも返ってくることがある。
新聞の記事を読みながら、
そんなことを考えました。
では。
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