人の記憶が途切れても、墓誌に名前が残る
2026年8月13日(木)
こんにちは。
川崎市多摩区の石屋、吉澤石材店の吉澤です。
今日はお盆で、お墓参りに行ってきました。
土砂降りに見舞われてちょっと慌てました。

線香を上げて、墓誌をあらためて見ると、
そこには、先に亡くなった人たちの名前が
並んでいます。
私が知っている名前もいくつかあります。
父親、祖母、曾祖母までは顔が分かる。
けれど少しさかのぼると、
もう会ったことのない、
顔も知らない人の名前ばかりになります。

「偲ぶ」というのは、
その人を知っているからできることです。
声や仕草、人となりを覚えているから、
手を合わせたときにその人が浮かんでくる。
私にとって、墓誌に刻まれた
古い名前の人たちは、顔も声も知りません。
残念ながら、その人を偲ぼうにも、
思い浮かべるものがない。
あるのは、名前と、亡くなった年月だけです。
いつも思うのですが、
お墓の記事がネットに出ると、
必ずこんなコメントが並びます。
墓があろうがなかろうがどうでもいい。
手を合わせるのは自分が顔を知っている人だけ。
自分につながる人とは見られない。
確かに、顔を知らない人を偲べないという感覚は
わからなくもない。
けれど、
その人たちは紛れもなく、今の自分へと続く
命の縦糸をつないでくれた先祖です。
自分が知らない、偲べないからと
無関係の存在にしてしまうのは
少し乱暴ではないかと、私は思うのです。
顔も知らない先祖を、
それでも知ろうと動く人たちがいます。
先祖探しを通じて自らのルーツを探ることを
ライフワークとされる人たちです。
私がSNSでつながっている方々の中には、
そうした方が何人もいます。
戸籍などの記録をたどりながら、
墓石に刻まれた名前や没年も
手がかりにしていく。
何代も前に枝分かれした親筋や本家を
突き止めて、手紙をしたためて送り、
そこからつながりを作っていく人もいます。
見ていると、なかなか困難な道であるようです。
手紙を送っても返事すらないこともあるようで。
それでも調べ、書き、送っている。
その人たちにとって、
石に刻まれた名前は空虚なものではありません。
ルーツをたどるための、
大切な手がかりの一つです。
記録は失われ、記憶は途切れる。
それでも石には、名前と年月が残っている。
そう考えると、名前は故人を偲ぶためだけに
刻んでいるわけではないことがわかります。
偲ぶ人がいる間は、もちろん偲ばれる。
けれど、その人を知る者すらいなくなった
何代か先でも、名前は石の上に在り続ける。
そこには、記録として遺す意味があるはずです。
そう考えると、何代か経って私の名が
この墓誌に刻まれた名前の一つになることも、
そう悪くはないように思います。
もちろん、家が続いていけばの話ですが、
きっと後の世の誰かは、私を偲べません。
偲べないけれど、名前には行き当たる。
吉澤の家が続いてきた、その記録の一行として。
墓の前で手を合わせる人の顔ぶれは、
年月とともに変わっていきます。
変わらないのは、石に刻まれた名前です。
人の記憶が届かなくなった先まで、
石が名前を覚えている。
今日撮った墓誌の写真を見返すと、
自分の知らない名前のほうが、
ずっと多いことに気づきます。

ただ、その墓誌を見るたびに、
何代もの人々がいて、その先に
今の自分がいることを感じます。
偲ぶことはできずとも、
思いを致すことはできる。
お墓はそんな場所でもあるように思います。
では。
【関連記事】
※お墓が、家族の記憶や記録を次の世代へつないでいくことについて、以前こんな記事も書きました。
・墓じまいの前に、思い出したい『お墓の良さ』
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