「自然に還る」で本当にいいのか──循環葬の記事を読んで考えたこと
2026年4月21日(火)
こんにちは。
川崎市多摩区の石屋、吉澤石材店の吉澤です。
今日もまた、インターネット上で
「循環葬」についての記事を見かけました。
最近は、「自然に還る」とか、
「子どもに負担をかけない」といった
フレーズとともに、
新しい埋葬のかたちが紹介されることが
とても増えたように思います。
たしかに、そうした言葉には
耳ざわりのよさがあります。
管理の心配が少ない。
子や孫に迷惑をかけにくい。
自然の再生にもつながる。
今の時代らしく、すっきりしていて、
考え方としてもきれいに見えます。
現実に、お墓をどう守っていくか、
誰が継ぐのかという問題は、
当事者にとっては簡単ではありません。
少子高齢化や核家族化が進む中で、
従来のやり方だけでは収まらないことが
あるのも事実だと思います。
ただ、それでも私は、こういう記事を読むたびに
本当にそれでいいのかなと思ってしまいます。
それは、
その選択が本人にとって心地よいことと、
残された家族や、その次の世代にとって
本当に良いこととは、
必ずしも同じではないと思うからです。
「子どもに負担をかけたくない」という言葉は、
やさしい言葉です。
でも、それは本当に残される側にとっても
やさしい選択なのでしょうか。
たとえば、
自分は自然に還る形を選んで
満足できるかもしれません。
墓石もいらない。
管理料もいらない。
森の一部となって循環していく。
そう考えれば、たしかに本人にとっては
納得のいく最期なのだと思います。
けれど、
残された側から見たときはどうでしょうか。

手を合わせる場所は、どこになるのか。
「ここへ行けば会える」
と思える拠点は残るのか。
雨の日でも、暑い日でも、年を重ねても、
無理なく足を運べる場所なのか。
そして、亡くなった人を思い出し、
静かに向き合うための目印は、そこにあるのか。
お墓というものは、
単に遺骨を納める設備であるだけではないと
私は思います。
そこへ行けば、故人を思える。
家族が集まれる。
親を思い、祖父母を思い、
その先へと気持ちをつなげていける。
そういう、目に見えない役割も持っていたはずです。
人は自然の一部。
そういう考え方もあるのでしょう。
ただ、私たちは親から生まれ、家族の中で育ち、
先祖から続いてきた流れの中に生きています。
先祖から自分へ。
自分から子へ。
子から孫へ。
そうした縦のつながりの中で、
お墓は一つの拠点になってきました。
時代が変われば、供養の形も変わるのでしょう。
ただ、そういうときほど、
耳ざわりのよいフレーズに身をゆだねてしまっても
よいものなのでしょうか。
「自然に還る」とか、
「子どもに負担をかけない」とか、
そういう言葉はとてもきれいです。
でも、きれいな言葉ほど、見えなくなるものも
あると、私は思います。
もちろん、森を守ることや、土地を育てること
自体を悪いとは思いません。
ただ正直に言えば、
大切な人の遺骨を「森の栄養になるもの」として
語ることには、私はどうしてもなじめません。
人の最期は、
そういう言葉で受け止めるものではないと
思うからです。
自由に選ぶことは大切です。
けれど、自分が自由に選んだことによって、
その後の世代がどこで手を合わせるかを、
また一から考えなければならない。
そんなことも、あるかもしれません。
普通のお墓を持ちたいと思っても、
その流れは一度切れています。
納骨堂を選ぶのか、別の自然葬を選ぶのか、
あるいは何も持たないのか。
それは自由とも言えますが、見方を変えれば、
何を拠りどころに供養を考えるのか、
その土台まで薄くしてしまうことでもあります。
きれいな言葉だけで、
この問題を片づけてしまうのは、
少し違うのではないかと思うのです。
お墓は、亡くなった人のためだけの
ものではありません。
残された人が手を合わせるためのものでもあり、
また、その先へ
何かを渡していくためのものでもあります。
自分らしい最期を考えることは大切です。
でも同じくらい、そこから先に続いていく人たち
のことも考えたい。
私はそう思っています。
では。
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