鬼を退治したあと、人はなぜ祀ったのか――酒呑童子と首塚と石塔の話

2026年5月19日(火)


こんにちは。
川崎市多摩区の石屋、吉澤石材店の吉澤です。

酒呑童子という鬼の話を、
ご存じの方は多いと思います。

平安の都を荒らした鬼の頭領が、
大江山を根城に若い男女をさらって喰らう。

これを源頼光と四天王が山伏に化けて近づき、
毒の酒で酔わせて討ち取る。

御伽草子や絵巻で広く語られてきた、
日本でいちばん有名な鬼退治の話です。

歌川国芳「頼光四天王勇士、鬼退治之図」
画像出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ「TOKYOアーカイブ」/画像使用条件:パブリックドメイン
※掲載にあたり余白部分をトリミングしています。

子どもの頃に聞けば、
これは勧善懲悪の話です。

悪い鬼がいて、
人を苦しめ、
勇敢な武士がそれを討つ。

けれど、歳を重ねてから読み返すと、
ただの怪物退治には見えなくなってきました。

鬼として語られた者たち

私は、この話をただのつくり話として
片づける気になれません。

鬼として語られた以上、
その元になった人間か、
あるいは一族のような者たちが
いたのではないか。

そう思えてなりません。

日本では古くから、
朝廷に従わない者を鬼と呼んで
蔑んできた歴史があります。

蝦夷も土蜘蛛も、
もとはその土地にいた人々が、
大和の支配に服さなかったために
異形の者として記録に塗り込められた。

鬼という言葉は、
その延長線上にあります。

征服した側が、
討った相手を「討たれて当然の怪物」に
書き換えていく。

酒呑童子も、
その一人だったのではないかと思うのです。

老ノ坂という境界

その首が、今も塚として残っています。

場所は京都の西、老ノ坂峠。

京都市西京区の大枝と、
亀岡市篠町の境にあたります。

平安の世で言えば、
山城国と丹波国の国境です。

伝承では、
頼光の一行が酒呑童子の首を持って
都へ凱旋する途中、
ここで道端の地蔵に
「不浄なものを都に入れてはならぬ」
と告げられた。

四天王の坂田金時が
それを無視して首を持ち上げようとしたが、
どうしても動かない。

やむなくその場に埋めて塚を築いた。

これが首塚の始まりだと伝わります。

この「都に入れてはならぬ」という一句が、
私にはこの場所のすべてを
語っているように思えます。

老ノ坂は、
山陰道が都へ入る関門でした。

西から京を衝こうとする者も、
西で討たれた者の首も、
必ずここを通る。

境界というのは、
内と外を分ける線であると同時に、
外の不浄を内へ入れないための装置です。

鬼の首がこの峠で動かなくなったのは、
重くなったからではなく、
境界がその不浄を弾いたからだと読むほうが
筋が通ります。

後の世、明智光秀が本能寺へ兵を返したのも、
この老ノ坂でした。

越えられなかった首と、
越えていった者。

まるで違う出来事が
同じ一点に刻まれているのは、
土地が因縁を呼ぶからではなく、
境界という機能が、似た出来事を
そこへ引き寄せるからだと思います。

討った者を、なぜ祀るのか

そして、私がこの話でいちばん引っかかるのは、
その先です。

討たれた酒呑童子は、
首を刎ねられる際に、
これからは首から上の病を持つ人を救おうと
言い残したと伝わります。

だから首塚大明神は、
首より上の病に霊験あらたかとして、
今も人が訪れる。

鬼として討たれた者が、
死んだのちに人を守る神として祀られている。

なぜ、討った者を神にまでするのか。

私は、
ここに二つの心が重なっていると思います。

一つは、討たれた側の悲しみです。

朝廷の支配に従わなかった、
ただそれだけのことで人ならざる者にされ、
理不尽に殺された者たちがいた。

その無念が、消えずに残ったと感じた人々が
いたということです。

もう一つは、討った側の後ろめたさです。

摂津源氏の棟梁・源頼光の頃は、
武士といってもまだその初期の、
いわば荒事を担う者です。

それでも、
人を斬って何も感じなかったはずはない。

仮に刀を振るった当人が鈍かったとしても、
それを命じた都の貴族たちは違います。

平安の都ほど
死と血の穢れを忌んだ社会はありません。

死に触れれば参内も神事も止まる、
その人々が、
討伐を命じて首を持ち帰らせた。

穢れを誰よりも恐れた者が、
人を殺させた。

そのおののきと後ろめたさが、
消えずに残ったのだと思います。

実際、首が都に入る手前の老ノ坂で止められ、
埋められたのは、
穢れを洛中に入れまいとする、
まさにその貴族の論理そのものでした。

討った相手を神にまで祀り上げる。
このことは、
菅原道真や平将門を思い起こさせます。

道真は無実の罪で大宰府に流されて憤死し、
その後に都を襲った災厄が祟りと恐れられて、
怨霊から天神として祀られた。

将門は朝敵として討たれ、
その首が祟ると恐れられて、神田に祀られた。

非業の死を遂げた者が祟る。

その祟りを鎮めるために
神へと祀り上げる。

これは私の思いつきではなく、
御霊信仰として古くから論じられてきた、
この国の弔いの一つの形です。

早良親王や道真がその代表で、
政争に敗れて非業の死を遂げた者を、
討った側が官位を追贈し、
神に格上げして鎮める。

酒呑童子の首塚にも、
同じことが起きています。

もっとも、学問はこの信仰を、
斬った当人の心ではなく、
討伐を命じた朝廷や貴族の側の恐怖、
そして疫病や天災を祟りと読んだ
社会全体の心理として説明します。

それはその通りだと思います。

ただ私は、もう一段下から見たい。

命じた側の恐怖の手前に、
刀を握った者の手があったはずだからです。

誤解のないように言えば、
都の武士が殺しに怯んだとは思いません。

出世を願い朝廷に仕える身として、
命じられれば躊躇なく敵を斬ったでしょう。

けれども、
躊躇がなかったことと、
後味が残らなかったことは別の話です。

ただし、その後味は、
斬った相手を悼む心ではなかったと思います。

まつろわぬ者と呼ばれ、鬼と語られた相手を、
可哀想なことをしたと悼んだのではない。

殺した報いが、
いつか自分の側に振りかかってきたら困る。

恨まれ、呪われては敵わない。

あくまでこちらの身を案じる、
勝手な慄きです。

討たれた者が、
自分を斬った当人を名指しで祟る。
そう信じられた時代でもありました。
であれば、刀を握った者が、
後の祟りを思わなかったはずがない。

だからこそ、
討った者たちは首をその場に埋めて塚を築き、
後の世はそこを神社として祀り直していった。

供養も塚も、相手のためというより、
自分たちに祟りが及ばぬための処置だった。

私はそう考えます。

武士はそういうものを持たないと言われますが、
この種の保身の恐れだけは、
いくらかでもあったはずではないか、と。

史料はそこまで語りません。

それでも、お墓を建てることを
生業にしてきた人間としては、

斬った手に何も残らなかったとは、
どうしても思えないのです。

そして慄いたのは、
斬った者だけではなかったと思います。

その後に疫病や不作が来たとき、
それを「あの者たちの祟りだ」と恐れたのは、
手を下したわけでもない都の民衆でした。

実際に手を下した者が、
祟りを恐れるのは分かります。

殺した相手の恨みが、
いつか自分たちに返ってくるかもしれない。

そう考えれば、塚を築き、祀ることにも
自分たちを守るための意味があったのでしょう。

けれど、手を下したわけでもない民衆が、
なぜ、そこまで恐れたのか。

祟りは、
恨みを買った当人だけを狙うとは限らない。
疫病や天災となって、
関わりのない者まで巻き込む。

学問はそう説明します。
それはその通りでしょう。

ただ、私が見たいのはその先です。

鬼と語られた者の正体は、山で鉄を扱い、
里との間を行き来した者たちだったという
見方もあるようです。

鉄を扱う者がいたのなら、
それを里に下ろし、
米や塩と換える相手がいたはずです。

鬼と里は、敵対する前に、
まず取引でつながっていた。

顔の見える相手だったかもしれない。

その相手が朝廷の命で討たれるのを、
里の者は、ただ見ていることしかできなかった。

後になって災いが続いたとき、
人々が恐れたのは、祟りそのものというより、
かつて行き来した者を見殺しにしたという、
自分の側の負い目だったのではないか。

道真も将門も、
もとは名のある実在の人間でした。

官位があり、筋があり、
祀られるべき格を持った敗者です。

酒呑童子は違う。

鬼として語られた時点で、
名も人としての筋も、
すでに剥ぎ取られている。

それでも、
首から上の病を癒す神として祀り直された。

御霊信仰が
身分ある敗者を鎮める仕組みだとすれば、
首塚は、名すら奪われた者まで
結局は祀らずにいられなかった例だと言えます。

鎮める手が、
御霊よりさらに一段下、
人ですらない鬼にまで伸びている。

そこに、討った側の後ろめたさの深さが
出ているように、私には見えます。

石を据える場所が意味を持つ

祀り方の場所も、ものを言います。

将門の首塚は、
後の世の都の中枢である東京大手町に今も在り、
動かせないものとして畏れられている。

酒呑童子の首塚は逆に、
都の外縁、境界の峠に封じられた。

中枢に居座らせて畏れる祟りと、
境界に封じて遠ざける祟り。

同じ祀るという行為でも、
どこに石を据えるかで、
その者をどう位置づけたかがそのまま表れます。

石を据える場所が意味のすべてを決める。

これは、石を据え、
石塔を建てる仕事をしている私には、
まったく他人事ではない話です。

正直に書いておきます。

ここまで書いておきながら、
私はまだ、老ノ坂にも大江山にも
行ったことがありません。

酒呑童子の塚も、
この目で見ていない。

これは机の上で組み立てた話です。

だからこそ、必ず行きます。

首塚の場所そのものが、
ひとつの問いを地形で突きつけてきます。

鬼の本拠とされる大江山は、
首塚のすぐ裏手にある大枝の山だという説と、
五十キロも離れた福知山の山だという説がある。

「鬼」がどこにいたのか、
その答えが出るとは思いません。

ただ、二つの説が分かれるその土地を、
一度はこの目で見ておきたいものです。

老ノ坂の首塚は、首塚大明神として、
今もその峠に在ります。

鬼として討たれ、
名を奪われ、
それでも病を癒す神として祀り直された者の
標(しるし)が、
都と外を分ける境にひとつ置かれている。

その標を置いたのが誰の手であれ、
その場所を選んだ意思は、
千年を越えて今もそこに残っている。

私はそう思いながら、
この文章を綴ってみました。

では。


この話には続きがあります →
「動機は、美しくなくていい。――お墓は『心が変わった日』に会いに行ける場所」(5/20公開予定)

※最後までご覧をいただきまして、ありがとうございます。

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