やぐらを前にして。鎌倉・大町釈迦堂口遺跡で考えたこと
2026年3月10日(火)
こんにちは。
川崎市多摩区の石屋、吉澤石材店の吉澤です。
今日は午後から、
鎌倉の大町釈迦堂口遺跡へ行ってきました。
以前から気になっていた場所でしたが、
ようやく自分の目で見ることができました。

住宅街を通り、谷戸の奥に入ると、
平場がひらけ、そのまわりの崖には、
いくつものやぐらが口を開けています。
実際にやぐらの前に立ってみると、
やはりこれはお墓なのだと感じました。
軽い気持ちでは前に立てません。
ふざけた気持ちでは見られません。
やぐらの中に、五輪塔が残っているものもあり、
地蔵が彫られているものもありました。
今は空になってしまっているやぐらもあります。

ただ、そうしたやぐらにも、
もともとは五輪塔が置かれていたのだろう
と思わせる痕跡が残っていました。
そういうものを見ていると、
あそこには、それだけ多くの死者がいて、
供養されていたのだと思います。

凝灰質の石壁は、
洗濯板のようにぎざぎざしています。
やわらかい石だからこそ、
こうしたやぐらが多く造られたのでしょう。
鎌倉にやぐらが多い背景には、
そうした石質と無関係ではないはずです。
ただ、見ているうちに、
別のことも気になってきました。
いったい誰が、こうした場を整えたのだろう。
誰が岩を穿ち、誰が五輪塔を据え、
誰がここを死者を弔う場として保ってきたのだろう。
こんなことです。
もちろん、はっきりしたことは分かりません。
一時に造られたものではないようですし、
これは、私の想像にすぎない部分もあります。
それでも、これだけのやぐら群を穿ち、
五輪塔を納め、場を整えていくには、
相応の力、つまり人手も、時間も、財力も、
すべてが必要だったはずです。
配布資料によると、
大町釈迦堂口遺跡では、やぐらだけでなく、
火葬の跡や建物の跡も見つかっていて、
ただの墓地というより、供養の場を含んだ場所
だったようです。
建物も、庶民の住まいというより、
もっと格のある建物か、宗教的な施設だった
可能性が高いとされています。
そうなると、なおさら気になります。
ここは、いったいどんな人々の墓だったのか。
皆が皆、こうしたやぐらに葬られたわけではない
はずです。
由比ヶ浜のあたりは、中世には埋葬の場でも
あったと書かれた新聞記事を
読んだことがあります。
そう考えると、大町のやぐらに眠った人たちは、
庶民というより、僧なのか、武士なのか、
あるいはこの場を支えた有力な人たちなのか。
そんなことまで考えてしまいます。
時代としては、鎌倉幕府が倒れ、
その後に建武政権があり、
やがて足利方が鎌倉を押さえていく。
つまり激動の時期です。
やぐらづくりが盛んになるのは、
ちょうど鎌倉の終わり、そして南北朝から
室町初めにかかるころのようです。
そう考えると、武家の力を背景にして
こうした場が整備されたのかどうか、
少し疑問にも思います。
たとえば真言律宗の高僧、忍性や、
その後の系譜に連なる人々が関わっていたのか?
由比ヶ浜の埋葬の話を思い出すと、
鎌倉の死者の扱いには、
かなり大きな宗教勢力が関わっていたのでしょう。
極楽寺に残る忍性塔は中世鎌倉でも
最大級の五輪塔だそうです。
律宗の教団に結びついた職人や労働者の集団が、
その時代にどれほど大きな力を持っていたのか。
そこからも想像が広がります。
また、石屋としては、
五輪塔の石がどこの石なのかも気になりました。
学芸員の方にうかがったところ、
石壁と同じような石のものもあるようでしたが、
そこまで細かな判別はまだついていないそうです。
そう聞くと、なおさら想像が広がります。
この五輪塔は現地の石なのだろうか。
それとも、どこか別の場所から運ばれてきた
石なのだろうか。
はっきりしたことは分かりません。
でも、分からないからこそ、
あれこれ思いを巡らせてしまいます。
そうしたこともまた、
史跡を見る面白さなのかもしれません。
誰がこれを造り、誰がこれを拝み、
誰がここで死者を送ったのか。
古の石造物を前にすると、
私はいつもそう思います。

大町釈迦堂口遺跡。
観光地としての鎌倉とは、少し違う鎌倉が
そこにはありました。
私にとっては、ただ遺跡を見たというより、
死者を弔う場について、
あらためて考えさせられる時間でした。
では。
※最後までご覧をいただきまして、ありがとうございます。
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