多摩区で納骨立ち合い。そこでの雑感。


今日納骨の準備でお墓に行った時に、顔見知りの葬儀社さんとお会いしました。

最近の葬儀事情やお墓のことについて、ほんの少しの間会話をしました。やはり葬送の簡略化という傾向が強くなってきているそうです。実際に家族葬に留まらず、多くはないものの「直葬」も出てきているとのこと。ましてや「ゼロ葬」という葬送の仕方も出てきているようですね。

それぞれ色々な事情(たとえば金銭面など)でそうせざるを得ない場合もあるでしょう。だからそれらを選択されることに対し、その是非を申し上げたいわけではありません。

話を聞いていて思うことは一つ。色々なことを簡略化し、あるいは切り捨てて一体それがどこに行きつくものなのか。その先には何があるのか。

あとにはきれいさっぱり、何も残らない。

それを想像すると、言いようもない空虚さを感じます。すべてを簡略化し、その人が生きた痕跡を消し去って、後々まで平気のなのでしょうか。お亡くなりの方に対して、精一杯の見送り方をしてあげられたという、残された者の気持ち(満足感)。こうしたものも区切りをつけて先に進んでいくために必要なことではないかと思います。

人が亡くなれば色々な負担や手間が生じます。面倒なことだってあるでしょう。でもそれはある意味で当たり前のことではないでしょうか。私はそう考えます。

人が一人亡くなるということは、断じて簡単なことではありません。それが身内ならばなおさらのことです。

葬儀の話として聞いていましたが、実際年忌やお墓などにもこの簡略化は当てはまります。身内の死に臨んで、その人に思いを致す時間や場であったはずの葬儀や供養・墓に対して、熟慮することなく表面上で判断、簡略化や効率化を押し進めてしまうのはどうなのかなと強く感じました。

実際のところ、家族葬でも必ず負担が減るということではないようです。状況によっては葬儀後に香典を各方面から戴いてしまい、返礼品を送るためにかえって送料と手間が余計に生じてしまうという笑い話のような話もあるそうですね。

長くなってしまいました。

また、よろしくお願いします。