鎌倉末期の名品──覚庵五輪塔と箱根五輪塔

2025年12月13日(土)


こんにちは。川崎市多摩区の石屋、吉澤石材店の吉澤です。

しまなみ海道を訪れたのは、2020年。
一度は、あの地の中世の石造物をこの目で
確かめたい。石屋としての好奇心に
突き動かされてのことでした。

今治の同業の友人にも会いたかった、
ということもありました。

田んぼの中にひっそりと立つ二基の五輪塔、
野間の覚庵五輪塔は、鎌倉末期の名品として
知られています。

大らかで、のびのびとしていて、
飾り立てたところがない。素朴でありながら
美しい。

いつまでも眺めていたくなる
佇まいでした。

寄り添うように並ぶこの二基を前にしたとき、
頭に浮かんだのは箱根の山中にある
「曽我兄弟の墓」と俗称される箱根五輪塔でした。

こちらも鎌倉時代の作とされる三基の五輪塔で、
並んで建つそのさまに、覚庵五輪塔と通じる
魅力を感じます。

この五輪塔をつくったのは、
どんな石工たちだったのでしょうか。

そして、あの佇まいが、なぜ成立しているのか。
その理由を確かめたくなります。

ここから少し歴史の話になりますが、
鍵になるのが、真言律宗の僧と、それに従った
石工集団の存在です。

鎌倉では、忍性ら真言律宗系の僧が貧民救済や
土木事業とともに、多くの五輪塔・宝篋印塔の
造立を主導し、その背後には大蔵安氏を棟梁と
する大蔵派石工集団がいたとされています。

鎌倉の極楽寺の忍性塔や覚賢塔などは代表的な
作例とされ、量感のある姿や、いやみのない
意匠は、覚庵五輪塔と共通する点が少なくありません。

一方で、真言律宗の僧は瀬戸内沿岸にも活動を
広げ、しまなみ海道周辺にも中世石造物が
いくつも残っています。

大蔵派石工が、忍性に従い関東へ下向したことを
思えば、瀬戸内方面でも、同様の石工集団が
関わった可能性も考えられます。

実際、「沙弥心阿」と刻まれた石塔が
中四国に分布し、同名が関東でも確認される
ことから、活動圏を広げた石工、もしくは
石工集団の存在を指摘する研究もあります。

箱根の五輪塔については、銘文で棟梁名まで
押さえられる多田満仲宝篋印塔ほど決定的
ではありませんが、研究上は大蔵派の作と
みなされています。

ただ、覚庵五輪塔そのものに、大蔵派と
断定できるような刻銘があるわけではありません。

それでも、僧が徳と指導力をもって石工集団を
率い、広い範囲で五輪塔を造り続けたと
考えると、両地域の名品が似た気配を
まとっていることに、単なる偶然以上のもの
を感じます。

石材人として、現物を前にした実感としても、
「これは同じ系統かな」と言いたくなるだけの
説得力があるのです。

こうした名品の石塔をじっくりと眺めていると、
単なる文化財ではなく、
「人々の願い・思い・祈り」を託す存在
であったのだと、改めて感じます。

現代の自分の仕事でも、
そうした見えない背景を大事にしながら、
一つひとつのお墓と向き合っていきます。

では。

※最後までご覧をいただきまして、ありがとうございます。

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(有)吉澤石材店 吉澤光宏

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