葬式仏教、大いに結構だと思う――登戸の石屋の視点から

2026年1月14日(水)


こんにちは。川崎市多摩区の石屋、吉澤石材店の吉澤です。

「葬式仏教」という言葉があります。

仏教が葬式と法事ばかりやって、
形だけの宗教になってしまった——
そういう批判を込めた言い方です。

たしかに、形式化や商売優先への批判としては
一理あると思います。

ただ、この言葉には大きな見落としがあると
私は感じています。

葬式を「軽い仕事」扱いしていないか

ただ、その批判の中で見落とされがちなのは、
葬式という営みそのものが持つ「価値」
ではないでしょうか。

考えてみると。

人が亡くなったとき。
家族が動揺しているとき。

このいちばん精神的に揺れる局面で
立ち会うのが葬式です。

これは宗教の真ん中にある仕事だと、
私は思います。

死は、人間にとって最大の断絶です。
葬式は、それを社会的に、象徴的に受け止める
「装置」でもあるのかなと、私は考えます。

それを「たかが葬式」と切り捨てるのは、
死と向き合う営みそのものを
軽んじているのではないでしょうか。

救われた人は、声を上げない

もう一つ見落とされているのは、
葬式仏教で救われた人たちの沈黙です。

葬式で救われた人は、声高に語りません。
静かに手を合わせて、日常へ戻っていきます。

だから批判の声の方が残りやすく、
救われた側の実感は表に出にくい。

これはかなり偏った構図だと思います。

実際、どれだけの日本人が
葬式仏教で救われてきたか。

家族が亡くなり、何をどうしていいか分からない
ときに、葬式という儀礼があった。

それがどれほど人を助けてきたか。

揶揄する人は、
そこを見落としているのかもしれません。

市井の人間の距離感

私は、仏教の中にどっぷりつかっている
人間ではありません。

むしろ外から、傍から見てきた一人です。

私たちのような市井の人間は、一から十まで
宗教に帰依しているわけではありません。

正直、普段はほとんど意識もしない。

それでも、人が亡くなるという
取り返しのつかない瞬間に、
弔うための型がある。

それがどれだけありがたいか。

葬儀は、後からやり直すことができません。

だからこそ、型があることで「ちゃんと送れた」
と思えることが、どれだけ救いになるか。

私自身、父親の葬儀のとき、そう感じました。
読経であの世に送ってもらえて、
ほっとしたことを覚えています。

理屈ではなく、ありがたかったです。

これが、多くの日本人の宗教観の一つ
ではないかなと思います。

もし葬式仏教がなかったら

もし葬式仏教がなければ、
故人をどう弔えばいいか分からなくなります。

型がないまま弔うことになれば、
後悔が残ることもあるでしょう。

「ちゃんと弔えたのだろうか」という問いが、
ずっと尾を引くかもしれません。

でも、僧侶が来て、読経があり、型がある。
そうすると、ひとつ区切りがつきます。

それで救われる人がいる。
宗教の機能の一つとして、
十分なものだと私は思います。

葬式仏教、大いに結構

誤解を恐れずに言えば、
仏教は、信仰を求める人だけのものでは
ないと、私は思います。

迷っている人、信じきれない人、
距離をとりたい人。

そういう人たちにも、弔いの場を通じて、
そっと手を差し伸べてくれています。

もちろん、葬式仏教への批判があることも
承知しています。

でも、それ以上に、葬式仏教で救われてきた
無数の人がいることを
忘れてはいけないと思います。

葬式仏教、大いに結構ではないでしょうか。

では。

※最後までご覧をいただきまして、ありがとうございます。

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(有)吉澤石材店 吉澤光宏

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